「もう1回」特融されていたとはウッカリしたが……旧山一破綻の日。

 3連休が明けての今日の日経朝刊6面に、小説『しんがり』(清武英利著・講談社+α文庫)の全面広告があり、その中に97年11月25日付日経朝刊1面トップの記事が丸々載っていた。山一証券が前日24日の臨時取締役会で自主廃業を正式決定し、大蔵省(現財務省)に営業休止を届け出たという記事で、日経は既に22日土曜付で山一のそういうことをスクープしていた。広告では、あれから今日で18年になったとのコピーもあった。

 もちろん山一の破綻自体は覚えているが、抜粋してある日経の記事では2〜3、知らなかったというか忘れていたというか、そんな事柄があった。中でも最たるのが、顧客資産保護のために(旧)日銀法25条に基づく日銀特融が発動されていたことだ。65年(昭和40年)にも運用預りの破綻で、当時の興銀、富士、三菱の3行経由で282億の特融を受けたことは今も名高いだろうが、97年のこの時はてっきり特融を受けずに破綻したものだと、どこでどう記憶がすり替わったか(?)自分でも謎なのだ。

 90年代後半のこの当時は銀行の不良債権問題のピークで、日銀特融が結構乱発されたこともあった。北海道拓殖銀や兵庫銀、みどり銀といった地銀のみならず、木津信用組合やコスモ信用組合にまで……戦後初がその65年の山一、そして大井証券に対してのみで、以来30年ほど経ってのそういった乱発だったのだ。なので、そんなこんなで特融総額も延べ1兆は下らなかった筈だ。

 それにしても20年近く前に破綻したそれら拓殖銀や山一、2信組は、もちろん特融の返済はなされていない筈で、結局特融資金は公的資金にすり替わり、つまり国民の税負担に行き着いたのかどうだったのか……これもこれで当時のニュースを忘れた残念な自分がいる(?)。因みに65年に山一が受けた特融は、3〜4年ほどで山一自身が完済している。そこで僕は今も時折考え込むが、65年当時のステークホルダーの面々は、32年後の破綻について一体どう思っただろうか。

 もっともこの小説『しんがり』は、ブログでは触れなかったが既に買って読み始めている。今秋の「課題図書」の1冊にしたわけだが、また例によってのMy悪い癖で(?)冒頭の20〜30ページでストップ中だ。昨日までの3連休中も見事にサボっており(?)、もういい加減に再スタートを切らねばなるまい(!)。

 最後に今日改めて思っての余談だが、山一の破綻を日経がスクープしたというのは……65年にも「山一がヤバい」というのを掴んでいたのに、大蔵省の要請による報道協定でジッと我慢の子で(?)記事にしなかったところへ、協定の埒外にあった西日本新聞にスッパ抜かれた。その時の屈辱も一気に晴らした、執念のような凄みを改めて感じたのは僕だけだろうか。

 但し65年のそれを言い出すと、取材が先行していたと思われる日刊工業や、他の朝日や読売等はともかく、日経だけは事情が実に複雑だ。その辺の詳細はMy愛読書『メディアの興亡』(杉山隆男著・文藝春秋)にあるが、端的に言えば、当時の日経の専務兼主幹だった円城寺次郎さんの、事実上の「鶴の一声」で協定が決まったようなものなのだ。