「光文事件」を忘れてた……だがカテゴリーは「大正」か「昭和」か??(はてなのお題)

 今回のはてなダイアリーのお題「行ってみたい時代」で昨日、昭和の高度成長期を第1希望(!)、明治時代を第2希望にしたが、晩に寝静まった頃に突如第3希望が噴出した(?)。大正と昭和の丁度「境界」で発生し、以来もう90年になる今も新聞業界を中心とするマスコミ界で語り草であろう、いわゆる「光文事件」の真相究明だ。

 大正天皇崩御した1926年(大正15年)12月25日、即日元号が「昭和」になったが、まさにその直前、当時の東京日日新聞(現毎日)が新元号を「光文」としたスクープを放った。しかし政府は昭和と決定し、結果東日のスクープは誤報となった……これが事件のあらましだ。
 
 「昭和」から今の「平成」になった時もそうだったが、この時も天皇の病状の悪化と共に既に内密に改元作業が粛々と進められていたようで、宮内省で「昭和」を含む10案、内閣で「光文」を含む5案を用意していた。そして崩御当日時刻の1時25分から9時25分にかけて、枢密院本会議で「昭和」と決定し改元詔書が発せられた。東日のスクープはその「空白の8時間」(!)の最中、朝刊か号外で放ったようだ(『ドキュメント新元号平成』毎日新聞政治部・89年5月刊)。

 しかしこの事件は未だ真相が究明されておらず、当時の関係者の証言や資料等が戦争を挟んだせいか皆無なためだ。なので僕的には次の2つの説があると思っている。

 ①やはり東日の早トチリというか早合点というか、典型的な「大スクープ、イコール大誤報」となった。

 ②東日のスクープ通り「光文」に決定していたが、国家機密が事前に漏洩したとして慌てた政府がイケズして(?)急遽「昭和」に変更した。

 ②に関しては『ドキュメント〜』でも触れられていたが、決定打的な証言や資料に乏しく、今日まで事実上の迷宮入りに至ってしまっている。ただ、明治から大正への改元の際、「新元号は大正」とスクープしたのが朝日で、当時の政府はそれはそれでイケズしなかったのだ(?)。

 僕的には光文事件の真相は②だと思いたいが、未だ究明されていない以上、確証までには至っていない。メディア研究の学識経験者的にも「行ってみたい時代」、いや、日付として大正15年のクリスマスとそれ以降、と答える人も多かろう。