「65年の山一への日銀特融」は、むしろ“メディアの興亡”が面白いのだが……

 今日の日経朝刊11面(日曜に考える)『経済史を歩く』第4回は予告通り、1965年(昭和40年)の山一証券への日銀特融について取り上げられていた。5月28日の赤坂にある日銀氷川寮でのいわゆる「氷川会談」や、32年の時を経ての山一経営破綻、そして昨今の日本の金融システムにおいて、40年不況前こそ「銀行よさようなら、証券よこんにちは」というキャッチフレーズまであった証券界が、一転して事実上銀行界の傘下に入り、法人間の株式持ち合い解消後それに取って代わられたのが、日本市場での売買シェア6割を占める外国人投資家であること等、今回も我々が周知のことを前提にサッと流す感じだった。
 しかし僕的にこの話は『メディアの興亡』(杉山隆男著・文藝春秋)を始め、『小説日本興業銀行』(高杉良著・講談社文庫)、『証券恐慌 山一事件と日銀特融』(草野厚著・同)といった愛読書を持つ者として、こういった登場人物の一連の動向も一篇のドラマとして“再放送”を何回でも見る価値ありと思う……松本明男(日刊工業新聞記者)→中山素平(日本興業銀行頭取)・菅谷隆介(同企画室長)→加治木俊道(大蔵省証券局財務調査官)→円城寺次郎日本経済新聞社専務兼主幹)。
 『メディア〜』に詳しく、また『証券恐慌〜』にも概略だけあったのだが、当時通常国会での証券取引法(現・金融商品取引法)改正審議の最中でもあり、大蔵省の加治木さんが日経の円城寺さんのもとに向かった用件はただひとつ……「山一危機を書かれない方策」についてで、円城寺さんは「七社会とその機能」について語るにとどめている。七社会とは朝日・毎日・読売・産経・東京・日経・共同通信の編集幹部で構成されていて、時事通信・NHK・日刊工業も「準加盟」として名を連ねている……「報道協定を結んで貰うという手があったか」というわけだった。しかし北九州のブロック紙西日本新聞が5月21日付朝刊1面で山一危機をスクープし、以降、氷川会談が開かれ38年ぶりの日銀特融発動までの丸1週間、山一の支店には運用預りその他の契約解約の客が押し寄せる取り付け騒ぎでパニックになった……
 こういった一連の“メディアの興亡”は、今回の『経済史〜』ではあくまで余談だからか一切触れられていなかったが、半世紀近く前の山一証券への日銀特融という出来事には、まさに『証券恐慌〜』という1冊の本になるくらいの膨大なドラマがあって、とても今日の日経11面に収まるような話ではない。それでもこの連載を読んで、「あ〜そうそう!!そう言えばそんなことがあった……」というきっかけで各々読者が関連書籍等にあたってみる、といったことも日経に言わせればこの連載の狙いでもあろう。
 なお、日銀特融の根拠条文になった当時の日銀法25条「日本銀行ハ主務大臣ノ許可ヲ受ケ信用制度ノ保持育成ノ為必要ナル業務ヲ行フコトヲ得」は、後に97年(平成9年)の法改正で38条1・2項(信用秩序の維持に資するための業務)に移り、法全文が現代仮名遣いに改まっていると共に「内閣総理大臣及び財務大臣の要請・認可」によって特融発動する主旨の、やや細かい規定になっている。