職場恋愛断念の後日談(10)…しおらしい彼女が僕にちょっぴり業を煮やした時 その2

 2つ目に93年4月25日の日記に書いたこと。その日は日曜で「気分転換に京阪電車淀屋橋出町柳間往復と、阪急京都線梅田―上牧間の往復乗車をしてきた。最近すっかり出不精気味だったので、それを改めるのも兼ねた」との書き出しだった。日記の中ではチョコッと(?)京阪ダイヤについての記述があるが、当時沿線在住だったこともある以上に、とにかく5月12日にも言った通り京阪は言うなれば「My原点」、忘れてはならぬ存在だった。
 ただ阪急上牧へ向かうのは当初予定していなかったことで、復路の京阪特急…出町柳16時16分発淀屋橋行きで形式は書かれていないが大方8000系、当時の3000系(現8000系)ではなかったようだが、とにかくそこで急遽思い立ったことだ。4月と言えば淀屋橋到着の17時頃にはもう夕闇が覆う時間で、やや遅かった感がなきにしもあらずだったが……
 「上牧へ向かおうと思ったのは…上牧―大山崎間が丁度東海道新幹線との並行区間なので、上牧駅ホームから新幹線の走りっぷりを眺めようと思ったのだ。(そして着いたのは)18時頃で、早速、次の京都へ向かって“飛び去る”(?)こだまを見かけた。新大阪17時57分発、東京22時17分着の『こだま454号』である」
 色んな意味で懐かしい(!)。そのこだまは、100系全盛且つ300系勢力拡大の一方で、急速に数を減らしつつあったものの、未だこだまを中心に一部ひかりにも充当されて健在振りをアピールしていた0系だった(!!)。しかも、既に3つの新駅(新富士掛川三河安城)が開業済みのせいがあったにせよ、所要時間が4時間20分かかっている。確かに当時とはのぞみ・ひかりも含めたダイヤパターンが違っているとはいえ、現在1本を除いて全て3時間57分なのと比べても、「0系の220km/h」対「300系・700系の270km/h」のコントラストが鮮明である。
 「以降こだま1本、ひかり4〜5本、のぞみ1本を横で見ていたが、やはり新幹線は乗るのもいいが端から見ているのも迫力があってすばらしい(?)。そして
 『たまの休みには、新幹線で東京へ行って、(神田・神保町の古書街で)本を買ったりしているんでしょう?』
 『えっ!? どうしてそれを…』
といった、22日の日記にはスペースの都合上書けなかった、22日の昼休みに交わした僕と彼女との会話を思い出したりした。昨年(92年)8月にあの(?)『のぞみ302号』に乗り、古書街で『日本経済新聞百年史(110年史)』等の書籍を買ってきて、後日誰かに話はしたが、それが彼女の耳にまで入っていたとは恐れ入ったものだ(?)」
 そう、ちょっとセンチメンタルに(!?)…その92年8月、つまりあの「起死回生の一筆」からほぼ半年後の話なのだが、当時日記とは別にこんな記述を残している。
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 (92年)8月1日から、世間より一足早く夏季休暇に入っていた僕は、夏季賞与の残り等を勘案しつつ、2〜3日間の東京遠征に出る計画を詰めていた。往復はもちろん新幹線で、一時、先般3月14日から走り始めた新大阪6時12分発の300系、旧名称「スーパーひかり」、正式名称「のぞみ(302号)」に乗るかどうかで迷った。早朝のため眠くなる心配をしたのだが、
 「いや、乗るなら今をおいて他にない。1時間に1本に増えるのは来春以降だし、早朝と深夜に1本ずつしかない現状では、土日乗車はこたえるし、冬場へ延期などとてもできない。なら、気候的にも最適なことだし、早めに乗っておくか…」
と思い、6日、晩になってJR京橋駅で7日乗車の指定を取った。
 そして当日。休暇も後半に入ったというのに、案の定というべきか、朝がつらかった。新大阪6時厳守のためには、京阪門真市駅5時20分頃の電車でスタートする必要があり、つまり起床が5時前後になるわけだ。まあ、丁度符節を合わせるように朝刊5紙(朝・読・日経本紙・日経産業・日経金融)が来てくれたが、読むどころか寝ぼけまなこでそれらをかばんにしまい込んで、さっさと家を出る有様だった。
 (中略)6時を5〜6分過ぎた頃か、新大阪駅新幹線ホームで新車300系との初対面。『鉄道ジャーナル』で常々見ていた通りの小型車両で、重厚感のある100系以上にスマートだった。車内も100系の落ち着きとは対象的で、内壁が明るいグレーを基調とした、ややあかぬけた感じがした。そして、側壁をくぼませて小型窓ガラスがはめこまれていて、トータルするとそれこそ飛行機の機内という雰囲気である。
 走行中は、驚いたことに100系以上に静かだった。車内の騒音対策が言われているが、どうしてどうして、あたかも停車中の車窓にジオラマが風景となって後方へ飛び去っているかのごとくだった。体感的には270km/h走行とはとても思えなかった。
 東京まで本当に2時間30分で着くのかどうか、まだ疑わしいと思う有様だった。持って来た時刻表に、「のぞみ」通過駅の通過時刻を次々記入していき、前走・後続の「ひかり」との差、「こだま」との断トツとも言えるスピード・時間の差を見極めて、やっと納得するのだった。定刻8時42分に着いた時、新大阪を12分先に出発し、名古屋で3分差で追いつき、そして2分早く出発させてもらってぐんぐん置いてきぼりをくらわした「ひかり200号」が、今頃やっと新横浜付近であることに思いを致し、四半世紀ぶりに本格的なモデルチェンジ・オブ・スピードを果たした300系のぞみのデビューを、新ためて喜んだ。
 だが今回の東京遠征目的から言うと、それは第2義的なものにすぎなかった。「のぞみ」の真価は、JR東海側も言うように、300系があと十数編成に増備され、東京―博多間を1時間ヘッド、所要5時間少々で走るようになってようやく発揮される。僕も、そうなる来春のダイヤ改正時以降には必ず通し乗車するつもりだが――但しその際は「グランドひかり」の動向が気がかりだが――今回は、それ以上に決着をつけなければならない課題があって、いわばのっぴきならない足取りでやってきたのだ。
 「今度こそ探し出してやる!『日本経済新聞社百年史』、あと『日本興業銀行75年史』とか、『メディアの興亡』で参考文献に挙げられている書物などを…」
 そして、都内中心部・神田の神保町にある古書街にやってきた。そして、150〜160もの店舗数がある中で、案内用パンフレットにあった社史を主に扱っている店に出向き、ついに、首尾良く手に入れることができたのだ。大阪ミナミの大阪球場1Fの古書街を、いくらくまなく見て回っても見つからなかった書物が、だ。買ったのは日経100年史と110年史、興銀75年史(別冊付)、そして『日本開発銀行10年史』の、合わせて5冊である。『メディアの興亡』の参考文献の中にある、毎日新聞の平岡敏男元社長の著書2編『焔の時 灰の時』 『毎日新聞 私の五十年』辺りはなかったが、それでも初願成就、いや、数年も前からの宿願が果たせただけで満足だった。
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 「若かったあの頃、何も怖くなかった、ただあなたの優しさが怖かった」……次元は違うがかぐや姫神田川』の一節が思い浮かぶまでもなく(!?)、またぞろ訂正箇所が3ヶ所見つかったのをまず何とかしなければなるまい。
 朝出掛け時に朝刊が丁度来たシーン(?)……「符節を合わせる」→「符節を合する」。これは微妙で、多分どちらでもいいのかもしれない(!?)。
 300系と100系の比較のシーン……「対象的」→「対照的」。これは、らしからぬ明らかな間違い。よく各種試験問題で頻繁に出る定番の熟語でもある。
 末尾での満足シーン(?)……「初願成就」→「所願成就」。これも然り。
 やはりこの秋の漢字検定2級を受けて一発パスすべきか(!?)。高校1年で3級を取って以来、当時はもちろん現在に至るまで約30年、2級チャレンジを放ったらかしにしてきた弊害が既にそんなところに露呈している(!?)。
 それにしてもそれらの書籍はその時買ったんだっけ?……やはり日記の力、なかんずくDatabaseの力は大したものだとしか言いようがない(!?)。日経社史は“私の愛読書”参考文献だが、興銀(現みずほFG)と開銀(現日本政策投資銀行)の方は、ここでは抜粋しなかった、抜粋文の遥か後方に記述してあるが(!?)高杉良さんの経済・企業小説『小説 日本興業銀行』の参考文献である。当時講談社文庫の全5巻も読破済みで、『メディアの興亡』参考文献と共にまとめて買い入れてやろうと思っていた。
 そしてこういったことは、職場での朝のスピーチ「所感」の順番が回ってくれば大方話してきた。しかし91年早々から彼女とは班が分かれているので、所感その他の「直接のやり取り」は遂に僕が辞める94年においても1度も果たせなかった。つまり「彼女の耳にまで入っていたとは恐れ入ったものだ(?)」とは、僕の班の誰かが彼女に伝言してくれていたからに他ならない。

 「でもね、らしい反面読んでてホントに寂しかったな……山川君、どうしてそこに彼女がいなかったの?どうして彼女を連れて行かなかったの?」「ホンマそうやそうや!なんでやねん!?」……
 仮に前者のセリフが高田みづえさんなら(!?)甘んじて聞きます。いつでも松ヶ根部屋に呼びつけていただいて、「単刀直入型オシャベリ好き」の機関銃照射的お説教を何時間でも拝聴する覚悟もあります(!?)。
 しかし2つ共当時の松下電器DSD関係者ならお門違い千万、筋違い千万、一言一句反論して勝つ自信がある(!!)…某首相ではないが「あなた方に言われたくはない!」(!?)からスタートして、今度はこっちが攻めて責めて潰してしまう。既に辞めて15年半強、在籍時の4年半とは真逆の僕なので遠慮も容赦もしない。絶対に負けない。
 そんなことより、93年4月22日のあの日の、その彼女の声には、確かに物静かな中にも切なさが入り混じっていた。