職場恋愛断念の後日談(7)…「劣悪環境」を払拭したかった起死回生の一筆!その1

 しかしいいこともそうそう長続きしないこともあれば、悪いこともチャンスひとつで好転できることだってある。将棋で得た教訓で、僕が知らない囲碁もそうだろうが、プロすらそのたった1手が起死回生に繋がったり致命傷を負ったりすることなど日常茶飯という。それを象徴することが、翌年92年2月に訪れた。
 それが、いや、それももう既述してある通り組合冊子『えんばんレポート』の、当初俎上に載った彼女の主宰する「女性対話会」に関する企画を女性保護の観点から木っ端微塵にブッ潰して(!!)、「私の愛読書」企画に急遽強引にチェンジした(!?)ことである。とにかく時間がなかった!……それもここで再掲したい。
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 僕はその組合支部で情宣部におり、その時『えんばんレポート』というA4大の情宣用冊子の編集に携わっていた。ページ数にして50ページ程のボリュームに、91年度中の中途入社メンバー紹介や新任製造部長のインタビュー、光ディスク技術の講義など盛り沢山の内容を掲載しようとしていた。そしてその編集会議で明らかにまずいと思った企画が俎上に載った。
 それは組合主催「女性対話会」の議事録を一部抜粋というもので、その司会者と掛け合うことを何とあろう事か僕が指示されたのだ。
 「女性対話会…それはその名の通り男子禁制であり、プラス、当然一切オフレコであると聞いている。それは非常にまずかろう、あともうひとつの意味でも…!?」
 しかもその司会者という方が、かつて僕が想いを寄せたものの、事情があるにせよ前年に「天神祭」もろとも物の見事に振っ飛ばしてくれたヒトで(!?)、それでもまたまたダメ元で(!?)ある日の昼休み、節電のため薄暗い職場の廊下で彼女(&彼女と親しいお局様)を見掛けてなぜかドキドキしながら(??)掛け合ってみた。
 「エ〜ッ、それはダメですねェ〜。一応支部委員に相談しますが、その会の趣旨からいくとちょっと…」
 案の定、またしても急な話(!?)だったので慌てふためかれてしまった(!!)。その後まもなく支部委員の男性上司がやってきて正式に断ってきた。しかし刹那「しめた!ようし……」むしろチャンス到来、断ってくるその時を待っていた(!)。
 そこで代案として急遽思いつき、その日帰宅後に即刻原稿にして翌日夕刻、「鉄男」としても志を同じくする情宣部長に提案したのが『My Favorite Books(私の愛読書)』という企画だ。そして事実上トップバッターとして僕が執筆する以上選んだその本とは当然(!)、言うまでもなく(!)、一橋大出身の元読売新聞記者・杉山隆男さんの86年デビュー作にして第17回大宅壮一ノンフィクション賞受賞作『メディアの興亡』(文藝春秋刊)である(!!)。あまりに懐かしいので(!?)今から思うとまだ若かったとはいえ我ながら拙文もいいとこだが(!?)ちょっと内容を抜粋したい。
 「日本経済新聞を朝夕刊月極め購読し始めて、既に4年が過ぎた。先般の財テクブームのプロローグの時期にあたる87年11月16日から始めたのだが、最近の景気低迷をもいち早く報じようとしているのか、今現在の紙面には“かつての活気”が感じられない。だが、それでも、目先のことに憂えて購読をストップするつもりはない」
 「(JRのKioskでバイトしていた頃になって)新聞というメディアの重要性に気付き、その年の9月から先にサンケイ(現産経)新聞をとり始めたが、『産業経済新聞』と銘打っていても、経済記事はさほど多くも深くもなく、物足りなかった……これが日経登場の大きな理由となった」
 「(なかなか読みこなせず、あれこれ日経新聞参考文献を買い漁り)愛読書『メディアの興亡』というノンフィクション小説は、そんな中の一冊である。経済評論家の石井勝利氏が、著書『マンガ版日本経済新聞の読み方』(明日香出版社)のコラムの中で、日経新聞のすごさを知る最適な書物と推薦していた」
 あとは当DataBaseでも既に触れた、高度経済成長期に日経の常務兼主幹、専務兼主幹として日経の編集面を統べり、そして社長としてANNECS(アネックス)プロジェクトと日経産業新聞創刊を推進した、92年当時顧問でいらしてこの2年後に鬼籍入りされる円城寺次郎氏までご登場願ったあと、「さあ朝毎読も出て来い!」とばかりに(!!)こう締め括った…
 が、ちょっとその前に当時彼女にも話した余談………因みに僕がとっていた新聞は今みたいに朝日・日経本紙・日経産業・日経ヴェリタスにとどまらず、毎日・読売・日経金融(だから今の日経ヴェリタス!)も基調に据え、日経産業の補完的役割に日刊工業と日本工業(現フジサンケイビジネスアイ)も数ヶ月だけとったりした。また、退社時に近くの駅売店で株式チャートの罫線作成用に株式新聞と證券新報(新報は今は廃刊)を、時折買っていったこともあった。
 ただ彼女に話したのはそれらの紙名全てではなく、「僕ウチでは産経以外全部とってます」つまり朝毎読日経って意味にとどめておいた。が、彼女に間髪入れず「なぜ産経もとらないんですか!?」とチョッピリ食ってかかられた(!?)。「いや産経は、まあ…かつて数年前にとってたんですがネ(ああそうか、しまった!彼女産経とってたのか!? そうとわかってたら日本工業をやめ、證券新報も週1〜2にして産経に切り替えたのに!)」……まあ本稿でもその旨触れたから、とりあえず今回それで勘弁してネ、先輩……後々書くと思うが、彼女との接点が少な過ぎたのがそんなところにも表れている。
 「この本は、何も日経物語ではなく…朝日新聞東芝との共同開発で『家庭電送新聞』の計画を練るとか、毎日新聞が『八幡製鉄と富士製鉄が合併する』という大スクープをやってのける経緯とか、読売新聞が、関連事業の一つ『よみうりランド』の建設資金を米国娯楽会社MCAから仰ぐため、あと一歩のところまできた全国紙としての体裁を整えるべく、九州へ初進出するとか、まさに多種多様な経済ドラマが渾然一体となって仕上がっている…その一方で、日本経済新聞社のかつての夢とロマンにもシビレた。これからの人生行路途上で思わず倒れ掛かったときの、心の支えとなる作品だ」
 この企画を咄嗟に思いついたのは、この組合冊子『えんばんレポート』に限っては内容にある通り下は新人から、上は非組である事業場長、部課長クラスにまでもれなく配布されるためで、尋常ではない重圧を感じながらも充実した見開き2ページを、その日の晩の就寝前2〜3時間で綴ることができた。数時間かかったのは、A4大の2ページが思いのほか分量が多くどう書くかで悩んでいたわけではない。逆に足りないくらいで、「充実した」と言っても本音はあと更に数ページほしかったほど、むしろ膨大な量の論点を(!!)どう凝縮するかで悩んでいた。また、当時のワープロでもって、しかし今もそうだがブラインドタッチができずチマチマした打ち方だったのと(!?)、あと熱心に推敲したからに過ぎない。
 そしてこの原稿が採用になり、翌日また昼休みの廊下でお局様を交えて(!?)「司会者」に対話会企画を無事おシャカにしたことを報告し今回の件に関して陳謝すると、「ありがとうございます!」と頭をペコリと下げながら丁寧なお礼を言われた。厳密には彼女が僕なんかにしかも丁寧にお礼を言う謂れはないが、要はやはり僕の、女性を見る目に狂いはなかった(!!)ということだ。しかし残念ながらお局様がいる以上、Happy Endな漫画・ドラマにありがちな「その後」は進めようがなかった。
 なお、また余談だがつい最近になってこの内容で一部事実誤認を発見し、熱心に推敲した手前少し赤面ものである(!)。それは2ヶ所あり、まず朝日の電送新聞で、後年買った4分冊の『朝日新聞社史(昭和戦後編)』によると、共同開発企業の東芝(当時東京芝浦電気)は『日経110年史』にも出ている通り間違いないが、プラス十条製紙も入っており、これは『メディアの興亡』本編で忘れられていた(!?)……電送新聞用紙の開発が別途必要だったのだろう。
 そして読売の九州進出で、その当時厳密には決して「初」ではなく、かつてそれ以前1940年(昭和15年)8月に九州日報(本社:福岡)を買収したことに端を発し、半年も経たず41年(昭和16年)1月には長崎日日新聞も引き受けたとあった(『読売新聞百年史』740頁)。まああくまで資本的・人事的関係上のことに過ぎず、読売ブランドでは発行していなかったが…以上2点、18年の時を経た今頃になって何だが、謹んで訂正しておきたい(!!)。
 更に別の余談としてこの際言っておきたいが、日経のANNECSプロジェクト、そのANNECSが何の略かの記述で製本上の校正ミス・ミスプリか作者杉山さんのウッカリか、さもなくば第17回大宅賞選考委員の皆さんによる「チェックスルー」の何れかだろう(?)、279頁左から7行目「Editing」が抜け落ちている。「Newspaper」と「&」の間だ。
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 まず今思えば組合情宣部がそんな企画を、しかも僕に振ってきたのは「山川君、そういったことを通じてもうそろそろ恋活・婚活(という言葉は当時まだなかったが…)してみたらどうか」という無言の遠回し的思いやりだったのかもしれないということ。入社して1年半過ぎ、既述の通り持ち場は未だ最悪の面々が大多数だったが、やはりチャンと見ていた人は見ていたということだろう。つまりそれは別に職場恋愛大反対どころか、賛成・奨励とまでいかなくとも節度を守りつつ進めていって、いつか吉報を届けてほしいということと思う。しかしそれでも「対話会企画」は余りにもマズ過ぎ、しかも事情や僕の落ち度があったにせよ前年に振られ、日ならずして諦めた相手に掛け合うというのは、年が明けてもトラウマが続いており実にヘビーだった(!?)。
 そして「しめた、チャンスだ!」と思った根底には実はいくつかある。1つ目に何と言ってもまず彼女へのアピール、ただ既にもう今で言う恋活のつもりはなく、「『山川さんとて所詮彼らとおんなじでしょ!?』……とすれば冗談じゃない、いっちょ奴等とは全然違う面を見せてやろう!」ということ。別の見方をすれば「その2ページ」を事実上彼女から横取りした格好にもなるのだが(!?)、当初の企画をおシャカにした以上今度は僕の責任でもある、といった大義名分もあった。
 いや、横取りじゃないな……何にしても彼女に2ページはキツイ……そこで急遽僕の出番……しかし僕には逆に2ページじゃとても足りない!……特に朝日の電送新聞、毎日の「八幡・富士合併」のスクープ(できれば更に余談として新日鉄発足まで)について、そのシーンにもシビレたからどうしても要約を書きたかった……それもそれで困った(!?)……それでも、かくしてフェミニストの新聞研究家振りを遺憾なく発揮!……が正しいか(!?)。
 2つ目に俗に言うチョットしたスケベ根性(!?)、非組合員である事業場長をはじめ部課長クラスにまで配布されるため「こういった話は大好き、いや、大いに関心がおありのはずだ」と思った……のはあくまで建前(!?)、後々「山川君、君が書いてたあの書評なんだが……今日明日か引けてからもし君さえ都合が良ければ、ちょっと小1時間程度でも話していかないか?」とでも呼ばれて、あわよくば色んな意味でゴチになろうと思ったに過ぎない(!?)。「尋常ならざる重圧」もあったんだから(!!)それくらい与って然るべき資格もあろうというものだったが、ついぞ誰にも1回も呼びつけられなかった(!?)。「あんな程度の低い話をよくもまあイケシャアシャアと…」「オレの知らんかったことばっかりや……文筆力もハタチ台前半にしてはケチのつけようなし!ホンマ山川怖い奴っちゃ」とかで、是非はともかく避けられていたのかもしれない(!?)。
 3つ目に「中途とはいえ新入社員には違いないんやから」と、それまで僕ら中途組を散々コケにしてきた連中への、下剋上とまではいかないもののせめてもの仇討ちのつもりでもあった。その「連中」の中によもや彼女まで入っているとまでは思わないが、そういう要素を完璧に払拭してやろうと企んだ面もあった。
 特に「新入社員ボール取りに行け!」「(入社した90年秋の)社員旅行で何か(宴会芸)やれ!」……いつだったか90年秋か翌91年春かソフトボール大会で誰か絶叫した(!?)時に「今に見てろ!」と決心し、初旅行の時に『ちびまる子ちゃん』のOP『おどるポンポコリン』をBGMにドジョウ掬いまがいの格好で踊りをさせられた時も然り……それら2つの屈辱をいつか、できれば早いうちに晴らすとの執念でいて1年少々、ようやく巡ってきたチャンスでもあった。