25年の時を経て改めて復習…「プラザ合意」。

 今日の毎日朝刊25面に1面フル使用で、1985年(昭和60年)の米国時間9月22日11時半(日本時間23日0時半)に、ニューヨーク5番街にあるプラザホテルで開かれたG5(当時の先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)にて取り交わされた「プラザ合意」についての25年特集が組まれてあった。それは3ヵ月前の6月23日、その日を一旦最後に日経平均が10000円を割ってしまった日でもあったが、満アラファーを迎えられた高田みづえさんへの「祝福ブログ」を長々と且つ切々と(!?)綴る中で、みづえさんが歌手引退・結婚された年でもある85年10大ニュースの一つとして触れたことだった。
 ただ実際は高3だった当時の僕的には10大ニュースに入っていなかった。と言うか、高3での社会の科目「政治・経済」が大得意な一方、新聞・TVニュースは現在とは真逆で殆ど見ず読まずのせいもあって理解不能(!?)、勿論プラザ合意も例外ではなかった。因みにとってた新聞、いや、親元にいたからとってくれてた新聞は読売1紙で、しかし見ていたのはTV欄かせいぜい三面記事とスポーツ面、広告くらいのものだった。後年改めて10大ニュースに入れたのはいつだったか定かではないが、初めて自腹で産経・日経、そして朝日の各紙をとり始め、『メディアの興亡』にも触発されて読み慣れるまでに至った88年(昭和63年)以降なのは確かなようだ。
 「へえ〜、山川君意っ外〜ぃ!…な過去ってわけネ。ってゆ〜か前にそういうことチラッと言ってたっけ…?」
 「うん。春先に皐月賞ついでに“そちら”へ訪れるつもりが、前日の休日出勤の疲れで無念の断念…ってネタでね」
 「でもやっぱ高3の時に政治経済大得意だったとはやるなァ〜……わたしは中卒で上京して歌手になったもんで、でもそんな山川君が羨ましくもありって感じかな」
 「まあ今も忘れもしないけど、高2の時の社会『日本史』が何とあろうことか、僕のみならずみんな待望の江戸時代まで進まず、その手前の安土・桃山で終わっちゃった。で、僕的にはその怒りと悲しみを3年になって政経にぶつけたって感じだった」
 「へ〜なるほどお〜そりゃ悔しいわ……江戸時代だったらもうTVで山ほどやってるもんネ。だから極端な話授業受けなくても勝手にテストの点取れちゃうドル箱時代なわけね」
 「そう!まさしくその通り。そしてもともと中3の『公民』と高1の『現社』…あっ『現代社会』で政経の部分は既に得意だったから我ながら基礎はバッチリ…でもってその政経で初めてクラスの優等生且つ親友に勝てて、瞬間風速的ながら1位になったこともあった」
 「へえ〜っ!山川君より賢い人っていたの!?」
 「いたも何も、やはりどこにだって上には上がいるって言うっしょ。今でも顔と名前は忘れもしない……あっそうそう、それって今思えばみづえさんへの結婚祝いになってなかったかなあ!?」
 「フフッもお〜山川君ったら…だいたい当時は河合奈保子ちゃんのファンだったんでしょっ!?……そう、わたしは山川君に1度も振り向いてもらえないまま嫁いでいったのよ」
 「って言ったって仮に振り向いたとしても当時僕高3じゃどうにもならんっしょ!? う〜む…過去の歴史とは時として奇なり」
 「あとさ、わたしの50の誕生日に日経平均1万円割れって言ったよね?」
 「うん」
 「それってわたしのせい?」
 「うん」
 「わたしアラファーになっちゃった失望売りか何かだったって言いたいの?」
 「うん」
 「翌日の新聞にそう出てたの?」
 「いや、何か他の要因でしょ?」
 「もお〜っ山川君っ!!もう怒ったわよっ!!」
 次にみづえさんと「夢で逢えたら」(!!)、エッチなことのみならず(????)そんな会話も是非したいかな……(!!)
 米国の貿易赤字を軽減させてあげようと米ドルを他の主要国通貨に対して全面安にし、あとは米が頑張って貿易とりわけ輸出という商売に励めば、その赤字縮小につながるはずだというのがプラザ合意の趣旨だと思っていた。そして特集を読むとやはりおおよそその通りで、しかし合意には後に2つの誤算が起きた。
 ひとつは1ドル240円辺りだったのが、合意後に日米欧の協調介入によって年が明けた86年(昭和61年)には200円台、そして5月にはもう200円突破のみならず150円台にまで円が急騰。その憂き目に遭い「円高不況」が訪れてしまったこと。ドル安基調のための円高円高でもピッチも水準も合意時の想定を遥かに超えており、日本の産業界はリストラや生産拠点の海外移転といった、折も折、今日懸念されていることを当時既に実行に移していた。
 もうひとつは特集で触れられていないから言うに過ぎないが、米国が一体何をしていたのか、輸出ドライブをキチンとしたのか否か、赤字が一向に減らなかったばかりか、何故か対日赤字が膨らんでいったという「怪奇現象」(!?)が起きたこと。まあ、当時のニュースや雑誌・書籍等、また後年日経朝刊『経済教室』のような場でキチンと検証されていたかもしれないが…しかし米からの内需拡大要求と超円高への対応を兼ねて、日銀は当時としては史上一番低い公定歩合(現在は基準貸付金利とも言うらしいが…)年2.5%に設定、あとは言わずと知れた「バブル経済」とも「平成景気」とも表現された好景気に入っていく。
 あとこれも特集にはなかったが、プラザ合意は87年(昭和62年)2月の「ルーブル合意」とセットで語られることが多く、その方が検証するには非常に重要だ。
 「へ〜え〜……ねえ山川君、次は何なの?そのルーブル合意って…?」
 「昨日発行の日経ヴェリタス最新132号にたまたまあったプラザ合意の説明の中で出てたけどね、フランス・ルーブル宮殿でのG7で、まあ早い話プラザ合意終了宣言ってとこかな。ドル安介入をストップ、とりわけ日本は今言った事情で円高日照りでアップアップだったもんね」
 一夜の夢の中で済むかもとはいえ、みづえさんの質問攻めにはプライドにかけてカッコ良く、完璧に答えてやりたいものだ(!!)。
 なおプラザ合意に関して2つ、後年TVで印象に残った番組がある。ひとつはいつどの局だったか忘れたが20年程前か、沢田研二主演の単発ドラマ『ザ・ディーラー』。主役の名うての為替ディーラーがプラザ合意後の急激な円高を境に苦境に陥るというドラマで、乗り切ったのか挫折したのかの荒筋も忘れたが目を見張った。
 もうひとつが15年程前の島田紳助司会の教養番組『紳助のサルでもわかるニュース』(読売テレビ)のクイズ特集での設問のひとつ「85年にG7の前身であるG5で決められた合意を、この会議が開かれたホテルの名前に因んで何合意と呼ばれる?」……見ていた僕は当然即答し、やや遅れてそのまんま東…後の、今をときめく(!?)東国原英夫宮崎県知事も他のメンバーより先に見事答えた。そして規定の点数が与えられた後、紳助が「今のは美しいからもう1ポイントあげよう!」…「ええ〜っ!何が美しかったんだ!?」(出川哲郎)…「今のは美しい。プラザ合意は美しい」(紳助)…これには今もそうだが笑ってしまう(!?)。