今日は偉大な新聞人の命日。

 家で取っている新聞は朝日と日経3紙(本紙・産業・ヴェリタス)だが、とりわけ日経の、特に60〜70年代の高度経済成長期における攻防劇には目を見張るものがあった。
 当時日経で発行していた日刊紙は、他ならぬ日本経済新聞のみで、しかし折からの経済発展でせっかく載せたい記事があっても、ページ数が朝刊からして現在の半分ほどしかなく“廃棄物”が後を絶たなかった……その受け皿的な新・新聞を60年代に考案し、73年(昭和48年)10月1日に創刊されたのが日経産業新聞だ。
 しかし日経産業を本紙と同時発刊できた影には、ANNECSプロジェクトという編集改革がなければ到底成し得るものではなかった。
 Automated Nikkei Newspaper Editing & Composing System の頭文字を取って「アネックス」と呼ぶのだが、その考案者は当時のトップとして、取締役会など周囲の危惧の念も押し切ってその計画を成功に導いた。

「いつの日か、日経は新聞も出していたのか、と言われるようになりたい」

 翻って現在、既にANNECSは「EDISON21」との名称変更と共に発展を遂げ、やや低迷気味だが日経産業は20万部程だと言うし、PC・携帯サイトの「日経産業 on line」「日経産業モバイル」を立ち上げたのみならず、いよいよ来る23日からPCと携帯電話で閲覧する日経本紙の電子新聞までスタートさせる運びだ。その、今では遺言ともいえるセリフを発した人は、泉下でどう思われていることだろうか……

 高度経済成長期に主幹として日経の編集面を統べる一方、常務から専務、そして社長としてそのプロジェクトの推進・成功にまで導いた円城寺次郎氏が亡くなったのは16年前、94年の今日である。あらためて合掌……